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【カラマツものがたり2】 カラマツ林業の始まり


カラマツは人の手によって植えられることで、はじめて各地に広がり、林業の主要な樹種のひとつとなりました。

いまでは、木を伐り出すことが林業の主な仕事と捉えられがちですが、人工林の林業は苗を育てることがなければ始まりません。

伐ったあとは植えれば良いと簡単に言われます。しかし良い苗が無ければ林業は続けらないのです。

山からカラマツの稚樹を採ってきて植えるのではなく、種から苗木を育てることは、長野県では江戸時代の天保年間1840年頃からの記録が残っています。 本格的に育苗がはじまるのは明治時代になってから。松本市今井が発祥の地のようです。

苗木の大量生産による大規模造林は佐久地方からはじまりました。 南佐久郡川上村の、井出喜重(1853ー1923)は明治32年(1899)に「落葉松栽培法」というカラマツ林業についての日本初の技術書を著しています。出版元は川上村の樹徳園書房。著者の住所と同じなので、自費出版だったようです。

写真はこの本唯一のカラーの挿絵。カラマツのボタニカルアートとしては私が知る限りでは最も美しいものですが、作者は不明です。

井出喜重は川上村の庄屋の家に生まれ、幕末には江戸で倒幕運動にもかかわる血気盛んな人だったようです。明治になってから学校の先生をしていましたが、カラマツと出会ってからは生涯のほとんどをカラマツ造林の普及のために尽くしました。

川上村のカラマツの精鋭樹から種を採り、やがて育種育苗の技術を確立して大規模生産はじめ、日本全国から海外にまで、種子や苗木を供給します。当時は「信州の落葉松王」と呼ばれていたそうです。 井出がカラマツ造林の普及を始めた理由は、明治維新以来の急速な乱伐によって山林が荒廃し、洪水被害が拡大した事を憂い、造林が治水に役に立つと考えたことからだそうです。

もっぱら森林づくりが広まることを目的とし、採取選別した優良な種子を新聞広告を出して各地に無料で配布して造林技術の指導をしました。やがて本格的な育種育苗の事業を展開するようになり、苗木生産は地域の一大産業に発展して行きます。

井出の落葉松栽培法が出版された一月後「林木の王落葉松栽培書」という小冊子も出ています。こちらの著者は、南佐久郡北相木村の高見澤薫、自由民権運動の活動家です。

写真は巻末の広告。

どちらの本も、国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。 120年も前の本なので古文書的な文体ですが、読めば当時の熱気が伝わってきます。

「落葉松栽培法」

「林木の王落葉松栽培書」


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